砥上裕將『線は、僕を描く』

一応発起人が私ということになっている短歌同人「えいしょ」(ちなみに代表は別に2人いる)は、気が向いたらDiscordで招集をかけて、なんでもないことを適当に喋っている。そのときにメンバーのNさんからおすすめしてもらったのがこの小説だ。話を聞くに青春小説らしいものの、ミステリーの印象が強いメフィスト賞を受賞しているということで「えっ、そんなことがあるんですね〜」と興味がわいた。

正直この小説のよさと要点については、解説で瀧井朝世さんがきれいにまとめていて何も語ることがないのだけど(解説を読むには本を入手しないといけないけど)、私は情緒がおかしくなっていたのもあって終始泣きながら読んだ。

初めは両親を亡くした大学生の男の子が、著名な水墨画の大家に見出されるという、いかにもな「ビルドゥングスロマン(成長物語)」な導入だったので、いくら「ビルドゥングスロマン」大好きな私でもこれはどうなんだと思いながら読み始めたのだが、話が進むにつれ重きが置かれているのは、絵を見て感じたもの、解釈したことをどのように言葉にしていくかで、それは普段自分が歌会なんかで、短歌を読んで受け取ったものをどう言葉にするか、ということとほとんど同じような感覚で描かれていた。作者は水墨画家でもあるので、描くときの身体感覚がしっかり身についているのは言うまでもないと思うんだけど、それが明確に言語化できるかはまた別の話で、描写を読みながら、YouTubeチャンネルなんかの武道の達人たちによる解説動画や声優の永井一郎さんが書いた朗読の入門書「朗読のススメ (新潮文庫)」を思い起こさせるところがあった。とりわけ「対象に教わりなさい」という物の見方、それは世界の感覚のしかたと言ってもいいのだけど、そうすることで自分が世界に連なっていく、両親を亡くしたことで外とつながることを一度断ち切られてしまった主人公が自分は孤独ではないのだ、と開かれていくところは、かなり宗教的な精神性を帯びていたように思ったし、そういう世界に馴染んできた自分には号泣ものだった。

それでも絵と言語表現が違うのは、絵は言葉を介さずに世界と通じることを考えるけれど、言語表現は言葉を介さずにいられないということで、言葉は感覚よりもそこにある意味内容が先行しやすい。だから同じ表現でも世界に対して違うつながりの回路を持つことになったりすると思う。でも結局、私によって現れた言葉がまた世界に私を存在させることになるし、それがまた世界でもあるわけで、極まるところ内面の話なんだなあ。

と勝手に納得してしまったのですが、現実世界に身を置いてなぜかさみしさを感じてしまう人は、変に何かを信仰するより、少し励まされたり、安心できる一冊かもしれないです(表現を考えるってある意味では信仰なわけですが)。